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TADANO 2025.4.16

多田野 弘
株式会社タダノ 名誉顧問
大阪府立西野田職工学校 高級科機械科 昭和13年3月卒業

  多田野語録 2503  
  多田野語録 2504  

2503 多田野語録  功の成るは成るの日に成るに非ず
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表題は、中国の宋代の人、蘇老泉の『管仲論』にある言葉である。人が成功するのはある日突然成功するわけではない。すべて平素の努力の集積によって成功するのだ、ということである。

さて、私の生涯に照らしてみて、功を成したと言えるものがあるだろうか。振り返ると青年期には、朧げに将来の夢を二つ抱いていたように思う。一つは、自分が始めた仕事を日本一にしたいということ、もう一つは、自分自身を高めて徳ある人間に仕立て上げるという、身の程を弁えぬ願望であった。

まず私の仕事だった我が社の近年の業績から見てみよう。戦後、多田野鉄工所から始めた零細企業を、現在約3000億円の売上を示す中堅企業に迄成し得ている。その内 62.3%が海外売上であり、仕向地のトップは米国である。

この飛躍的な成果は、跡を継いだ息子「宏一」の努力によってつくられたものだと直感した。我が子を褒めるのは面映ゆいが、誰が何と言おうと、胸を張って 「よくやった!」と褒めてやりたい。

彼が社長に就任した時、「これからは「M&A』による海外戦略で業績を伸ばすしかない」と私に漏らしたのを憶えている。彼と、その後を受け継いでいる現社長は言葉通り、'03年以降、米国で3社、ドイツで3 社を吸収合併し、英・仏を含む欧州・中東で15社を資本提携による合併をし、合計21社を傘下に収めた。 この功績が'24年度の業績拡大の素因になっているのは、明らかである。

次に、自分自身を振り返ってみたい。過去の出来事であるが、世界一ではないかと思うことがある。それは80年余り前に始まった日米戦争中、南方の島で戦った両軍数十万人の将兵で、今生き残っているのは私独りだろうということだ。

また、特筆したいのは、この語録である。平成3年、71歳になって、パソコンを習い始め、エッセイを記したのがきっかけになっている。平成11年12月、第1号以来、今日まで 25年間続いている。

なぜこれほど続いたのだろうか。振り返ってみると、意志が強かったわけではない。毎月、どのような内容にするかに頭を悩ましていた。それが、創造の喜びに変わっていったのである。頭に燻っていた情報や知識がエッセイに活用され、 スッキリするので、頭の体操にもなっている。

これまで自分に課した修養の課題は、すべて苦難をともなうものだった。例えば寒中水泳のように、エッセイと同様、 何十年も続いたのは、苦難が大きいほど成長があり、喜びが大であることを知ったからだ。

私の生涯にはこれといった、功を成したものはないが。懸命に、自分の可能性を追求し続けてきたことに満足している。 故に、自分にも「よくやった!」と褒めてやりたい。やはり私は世界一の幸せ者だと思うと共に、こうした恵まれた運命を齎してくれた天恩に、感謝して止まない。




2504 多田野語録  人間における運の研究
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今回は、運の研究という課題である。運とは人知でははかり知れない身の上の成り行き・めぐりあわせをいう。誰もが運に恵まれ、よりよい人生を過ごしたいと願う。

運には「運が向く・運の尽き・運は天にあり・運を天に任せる」 などの成句がある。多くの人は運や運命を「決められたもの」で生涯動かすことができないと解釈している。しかし、それらは天の配剤であると同時に、人間が受け取り、つくるものであると私は考えている。例え運が悪くても、それをどう受け止め、どう対処していくかで、限りなく変えられるのである。

私の100年余の生涯を顧みたい。私を機械技術者の運命へと方向づけたのは、小学校を終えるころ、父から大阪の職工学校への進学を勧められたことに始まる。いつも慈愛のこもった眼で見守ってくれている父からの勧めは、深い考えの下にあったのだろう。競争率が8倍の府立学校だと知り入学を決めた。

次に卒業1年後、海軍に志願を決めたことであった。甲種機械科卒で海軍にて航空機整備に従事すると3年の兵役が1年で済む新しい制度が発表された。私は早く社会で実力を発揮したいと、昭和14年10月横須賀海軍航空隊に入隊した。19歳だった。海軍は殴って鍛えるところだと聞いていたが、入隊した横空練習部は、聞きしに勝る猛訓練だった。3年かかる基礎訓練を1 年で済ますのだから当然だった。訓練に際し、私たちの行動を見ていた教員から「動きが鈍い、気合が入っていない」と大声で叱正され、鉄拳の制裁が下る毎日だった。1年の基礎訓練が終わった時、鏡の中の自分を見て驚いた。見違えるほど顔つきが引き締まっており、逞しくなっていた。いかなる困苦欠乏にも耐えうる自信ができたように思った。運命は自分でつくるものだと感じ入った。

基礎訓練終了と同時にいったん予備役となって帰郷したが、 翌16年10月召集令状により、矢田部航空隊に入隊した。2か月後、私を待っていたかのように日米開戦となった。最前線で戦闘に参加したいと上司に申し出た。隊員では私独りだった。

戦場に向かう途中、船長の機転で開戦直後に海軍が占領したウエーキ島に寄港してくれた。米軍捕虜が滑走路修復で運転する米国製の土木建設機械がすべて油圧で動いているのが、私には分かった。職工学校で学んだ基礎知識があり、既に日本の航空機の油圧機構を知っていたからだ。

その後、南の戦場での3年間は、生死を分ける凄まじい日々であったが、生き抜いた。それは自力でなく、大いなるものに生かされていた。その体験から、自分が宇宙の意志を帯びた魂の存在であることに気づかされ、生涯を魂主導の生き方で歩むようになった。

戦後、父と弟の3人で、焼け跡に建てた24坪の小規模の機械修理工場を始めたことが、私の運命を決定づけた。国内の復興の機運と相まって、仕事は増えていった。そうするうちに、天の配剤であろう開戦当初に見たウエーキ島の光景が思い出された。 「ダメ」でもいい、油圧を利用した荷役機械をつくろうと、寝食を忘れて取り組み、試作機を完成させた。これが今の我が社の礎となった。

私は持ち前の独立自尊の精神で、あえて安易ではない道を選んできた。振り返えると、人生には「幸運」や「不運」に見えるけれども、「人間万事塞翁が馬」の例えのように、幸運の裏には災いの種が潜んでいるし、不運と思われる中に幸運の種が隠されている。例え悪い出来事であっても、その対処の仕方によって変えられ、新しくつくり得ると私は確信している。自らの生涯を振り返り思索すると、運は自ら招き受け取り、運命は自分がつくるものだといえる。