私の戦場の体験は、昭和18年7月、南太平洋の激戦地ラバウルから始まっている。23 歳だった。連日、100機を超す戦爆連合の敵機の来襲を迎えて、200機余いた我が戦闘機隊は迎撃撃退していた。私はゼロ戦の整備下士官として勇躍戦闘に従事していた。来襲のあるたびに、滑走路の傍に設けた土盛りの防空壕に退避したが、B24 爆撃機が投下する1トン爆弾には効果が無く犠牲者が出た。やがて、我が方は人員・機材共に損傷していったが、その補給は十分でなかった。それに比し、米軍は日増しに戦力を増強し、戦況は次第に悪化していった。このまま過ぎるなら死を迎えるときが近いと、一兵士である私にも感じられた。
夜が来るたび、どんな死に方すべきかを考えるようになった。ある夜、心の奥から「びくぴくせずに潔く死ね」という声が聞こえてきた。「そうだ! 祖国や家族の平安のために一命を捨てることは、男子の本懐ではないか、前から撃たれて死のう」と、あっさり死を受け容れることができた。すると忽ち、死への恐れは消え去り、心は青天のように澄み切り、勇気が湧いてきた。以来、不思議にも弾雨の中を平気で動けるようになったのを覚えている。私の度胸がよい上に「クソ」がつくようになったのは、それ以来である。
昭和19年1月、彼我の戦力の差が大きくなり、戦線の縮小を余儀なくされ、我が戦闘機隊は全員サイパンに移動することになった。その内私たち250名余は、二隻の貨物船に便乗して行くことになっていた。当時ラバウルは、既に、空も海も米軍の勢力下に移っており、出港した船が無事に着いたためしがないほど緊迫していた。
さあ困った、船が沈めばどうやって死ねばよいだろうかと思案する中、ふと或る考えが閃いた。水中を深く潜っていくと、水圧で失神して死ねることを思いついた。苦しまずに死ねる方法を知った私は泥のように眠ってしまった。

サイパン |
一式陸攻 双発爆撃機 |

二式大艇 四発飛行艇 |
案の定、出港の翌日コンソリー爆撃機が一機飛来して爆弾投下され、僚船羽黒丸が直撃され舳先を上にして目の前で沈んでいった。我が海河丸は幸運にも至近弾であった。 しかし、安心したのは束の間、翌日、見張り員の叫ぶ、“雷跡”の声と同時に、私は轟音と共に甲板上に叩きつけられた。魚雷だったがどこも負傷してなかった。機関が無事だったのか船は進んでいたが、二発目が来るのは必至とみて、何も考えずデッキから海に飛び込んだ、行くも死、留まるも死だった。太平洋の波は巨大だったが、死ぬのは未だ早すぎると一人悠々と浮かんでいた。(私が孤独に強いのはこの経験による。)いつの間に来たのか、味方の駆逐艦がカッターを降ろして救助しているのが見えた。急ぎ泳いで行って救助され、潜る必要なくサイパンに着いた。両日の戦死者は35名であった。
サイパンでは、忘れもしない昭和19年2月19日、米58機動部隊によって壊滅されたトラック島へ応援の命を受けた。私は数名の部下と1式陸攻(双発爆撃機)に便乗し、 ゼロ戦 20数機と共に向かった。1式陸攻は速力が遅く、弾が当たるとすぐ燃えるので1 式ライターと呼ばれていた。トラック島に着く前に、グラマン戦闘機に食われてしまうだろうと思い、いい死に場所を与えられたと勇んで機中の人となった。
私は、機の前部にある7耗7機銃席で、目を皿にして敵機との遭遇を見張っていた。 幸いに、トラック島の上空に敵機は1機もいなかった。しかし、私たちが出払ったサイパン島が今、猛烈な空襲下にあるという。数日後サイパンに帰着すると、「お前は運のいいやつだなぁ」と羨ましがられた。3月初旬、命により、我が戦闘機隊はサイパン基地を撤収し、空母千代田でペリリュー島に移動した。
ところが、3月30日、ペリリュー島は米58 機動部隊に包囲され、二日間、連日空襲を受け、我が戦闘機隊は迎撃に飛び立った。だが、初日の戦闘で全機を失い、翌日、グアム・テニアン両島の基地から応援に飛来したゼロ戦52機も、夕刻までに全機南溟に消えた。両日の戦死者246名を数えた。その間私たち整備員は、迎撃戦で弾や燃料を使い果たして降りてくるゼロ戦に、それらを補給してまた飛び立たせる任務であった。
上空には、グラマンの編隊が終日旋回していた。私たちが滑走路に出ると忽ち狙撃されるのは必定だったが、「いくぞ!」と叫んで壕を飛び出し、「滑走路が俺の死に場所だ」 と思って、弾丸を打ち尽くして降りてきた味方機に向かって駆けていった。上を見るとグラマンの編体がこちらを目掛けて突っ込んできた。もう滑走路上に伏せるしかない。 同時に、ダ、ダ、ダと弾がコンクリートにはじける音が耳をつんざいた。もっと細ければいいのにと思った。
立ち上がってみると、数人の部下がついてきていたのを知ったが、誰も傷した者はいない。続いて次の編隊が来ぬ間にと駆け出した。皆オリンピック並みの早さだった。部下は滑走路に身を晒すと、空から狙い撃ちされるのを知りながら、誰一人としてひるむ者はいなかった。彼らは皆ラバウル以来の歴戦の勇士だった上、私の率先垂範が彼らを死地に突入させたのだと思う。
やがて、戦闘機を消耗し、防御力を失ったペリリュー島は、いつ敵前上陸されても不思議ではなかった。31日夜、総員集合が令され、中野司令から、「米軍上陸の公算大なり、我が隊は最後の一兵まで戦う」と訓示があった。私たちは僅かな武器で海岸線に布陣して敵の上陸を待った。この砂浜が俺の死に場所だと観念した。これまでラバウル・サイパンで何度も死に目に遭いながら、よくぞ生きてこられたものだ、もう年貢を納めてもいいと思うようになっていた。しかし、又もや予想に反して、ペリリュー島は翌日から、波の音しか聞こえない穏やかな日が続いた。
我が201航空隊は急遽、フィリピンのセブ島に移動することになった。私は特命により、ゼロ戦を中島飛行機製作所で受領して、セブ基地に空輸せよと出張を命ぜられた。 隣接のパラオ基地に隠していた2式大艇(四発水上飛行艇)に便乗し、内地に向かって飛んだ。玉砕が予想された島から8時間経った頃、「日本に着いたぞ」の声で、機上から見た房総半島の桜に涙が止まらなかった。生きて二度と見ることはないと思っていた祖国日本に帰ることができたのである。その嬉しさは到底言葉にすることができない。
中島飛行機製作所で受領したゼロ戦は、一旦木更津基地に集合することになっていた。 今だから言えるが、私は陸路移動すべきなのを、顔見知りのラバウル以来の搭乗員に頼み、工場から出てきた新品のゼロ戦にもぐりこみ、木更津まで飛んでもらった。無断で戦闘機に同乗飛行した。海軍刑法に触れる大罪を犯していたが、どうせ、フィリッピンへ行けば生きて帰ることなないだろうと腹をくくっていたからだ。
受領したゼロ戦数十機と共に、先導する一式陸攻に便乗し、沖縄・台湾経由してセブ基地に着いた。ところが、主な201空基地隊員は、ペリリューからセブ基地に向かったジョクジャ丸が、魚雷を受けて沈んだことを知らされた。私は出張のお陰で、再び太平洋で泳がずにすんだ。やはり、俺は運のいい男だ。
セブ基地では、9月12日、敵機動部隊の奇襲を受け、私たちが日本から空輸した新鋭のゼロ戦 70 数機が餌食にされてしまった。201空本隊はセブ島からルソン島マバラカット基地に移動することになり、私はセブ基地から一式陸攻で行った。
同基地では10月25日、世界史にも残る、戦闘機に250キロの爆弾を抱かせ、機もろとも敵艦に突っ込む特別攻撃隊を、日本で初めて我が隊から出すことになった。当日、 来隊した大西滝次郎司令長官と、水杯を交わした特攻隊員が、操縦席から我々に手を振って出撃して往くのを、「総員、帽ふれ」で見送った。
機上の彼らの顔は驚くことに、晴れ晴れとして、しかも凛として輝いて見えた。もうこれは人間業ではない、神の化身ではないかと見紛うばかりだった。私と同じ若者が、 祖国の危機を救わんと、進んで命を捧げようとする姿に、震えるような感動を覚えた。 私も彼らと共にフィリピンの土になろうと心に誓った。
昭和20年1月、私は最後の戦場となったフィリピン・マパラカット基地にいた。温存していたゼロ戦は、すべて特攻として出撃し、戦闘機が一機もいない状態に立ち至った。 そのような中で、傷ついたゼロ戦を一機でも飛ばそうと夜通しで修理していた。そのとき、上司から呼び出され、「今夜0時、近くのクラーク基地出発のダグラス DCIII輸送機で、茨城県の神之池基地へ行け」と告げられた。
一瞬、夢ではないかと思った。当時の戦況から見ても、自分の死が、そう遠い先ではないと諦めていた矢先だった。また日本へ帰れるという嬉しさもあったが、武器を持たない多くの隊員を基地に残したままである。命令とはいえ、自分の帰国に、後ろめいた気持ちが何時までも残った。生き残っていたゼロ戦搭乗員達と共に、ダグラス機でバシ一海峡を越え、台湾・沖縄経由で日本に帰り着いた。
当時、フィリピン・クラーク基地には毎日一機、双発の輸送機が日本から飛んできていたが、主として軍の高級幹部が日本との連絡に使用していた。その定員は15名程度、 帰国したい将兵が山ほどいたのに、私ごとき一下士官を便乗させてくれたのが、今も不思議に思えるのである。憶測だが、多分私の3年余の戦場における、死を賭しての働きぶりの褒章として配慮してくれたとしか考えられなかった。やっぱり俺は運のいい男だ。
赴任した神之池航空基地は、世界史上でも稀な、ロケット推進の人間爆弾「桜花」を 、721航空隊の戦闘機隊、306飛行隊だった。九州・富高基地に移動した我が戦闘機隊が、「桜花」を抱いて出撃する1式陸攻の護衛として出発するのを見送った。だが、1 式陸攻が鈍足のため途中で撃墜され、「桜花」は咲かないまま散った。そのうち、広島・ 長崎の原爆禍があり、続いて終戦となった。
私の3年余の戦場体験は終わりを告げたが、同時にそれは、戦後に生きる私の人生を決定づけるものとなった。何度も捨てたはずの命が、ここに生きているのは、神が生かしてくれたのだと思わずにいられなかった。ならば生かされたこの命を、世に役立たせることが、その恩に報いる唯一の道である。という考えが揺るぎないものとなり、強い自信となって、100歳を超えた私の人生をつくってくれたといえる。
私が命を捨てて闘ってきたのは、国の平和と家族の平安のためだった。
この体験記を、 孫たちに託す平和の願いとしたい。
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